[Diary 132]

 



Diary 


                                 
                                                     

                                                       VOL.133

 2007年 6月 ダイジェスト  (8月28日 皆既月食)                  Part 1
 前回のDiaryから、久し振りの更新です。6月に入ってから、予想外の出来事が起こったので、ひと段落するまで待つことにしていました。
 6月は「浄化」の月ということで、ここ数年は肉体レベルでの遺伝子転換させるようなことが続いていたけれど、ほぼ終わってくれたのか、今回はもっと深いものとなったのでした。
 (日付に、当時のブログをリンクさせておきます。^^)

 6月1日の満月の日に、「触れるもの全てを、黄金に輝くものに変えていく。」というメッセージの他に、「本当の自分が現れてくる」「驚くような形で、古い問題が解決される」というのがあった。  この時にはまだ、何のことか知る由もなかった。
 ・・・ほとんど毎日、早朝のお散歩をしていました。5月に入ってから、ローフード中心の食生活を始めたことも、その準備の一つになっていたようです。


 6月6日には、ハートの朝日からSTS支局の上にソーラーレインボー、龍の雲と続き、ゴールド尽くしの一日。そして、高知の旅へのメッセージを受け取った。


 6月15日の新月のメッセージ。 「示されるサインに注意を払うこと。その中に大事なメッセージがある。導きと直感に従うこと。今まで避けてきたことが表に現れる。ゴールドとダイヤモンドの意識へ・・・。」   この日は、お大師さまのご生誕の日でもあり。(^^)

 翌日の16日は、「恐怖に立ち向かう」ことがテーマだった、「アポカリプト」を観ることになった。

 そして、その翌日の17日に突然始まった。 ・・・ 朝8時ぐらいに電話が鳴った。救急隊員の人からだった。(!) 父の様子がおかしいことに気づいた近所の人が、救急車を呼んだのだという。一瞬、凍りついた。
 でも、意識はあるから、すぐに生命に関わることではなさそうとのこと。・・・ほっとした。どうやら、数日間何も食べれなかったようだ。それを聞いて、「それなら大丈夫。」と思えた。

 お昼までにすることを終えて準備し、午後になって柾至と一緒に、搬送先の病院へ行くことに。ガルーダちゃんに乗ろうとしたら、シートの上に金色のてんとう虫がいるのを見つけた。(!) てんとう虫さんも久し振りに見たけど、金色なんて初めて。 ・・・ それがサインの一つになっていた。
 向かう途中も、明るい日差しが注いでいるのに、雨の雫がポツポツ落ちてきていた。

 救急室にいた父の姿をみて、衝撃を受けた。 頬の肉が落ちている。いつのまにこんな・・・!? 一週間前にも会っていたのに。(!) ハーモニーウォーターなどの差し入れや、様子を見るのも兼ねて、週に一回のペースで父のところに行っていて、この日の午後も予定していたのだ。

 私たちの顔を見て、ボロボロと泣き始めた。・・・こんな父は初めてだ。よほど辛かったのだろうか。一体この間に、何が起こったのだろう。
 両手を握って、ゆっくり話し掛けた。急に食べることが出来なくなり、水も飲めなかったのだという。電話してくれれば良かったのに・・・と言うと、すぐに落ち着くと思っていたそうだ。
 もう大丈夫だから安心して・・・そう言いながら、弱った姿の父をみて、涙が出そうになるのを抑えていた。

 まだドクターに診てもらっていないし、検査をしないことにはわからないということで、そのまま待つことになった。近所の方たちが鍵を預かってくれていることもあり、柾至に残ってもらって、この間に家に行くことにした。 そして、家に一人でいる母の様子をみるために・・・。

 母のことを、Diaryに書くのは今が初めてです。これから書くことの中には、これまで触れることが出来なかったものがあります。そのパンドラの箱を、ようやく開ける時が来たようです。・・・

 20数年前に家族でゼロからやり直すために、何もかも手放して福岡に移った頃から、母の精神が少しずつ不安定になっていた。
 私なりに原因として感じるものがあったので、その頃に出会った人の紹介で、ある霊媒師さんのところに行った。口数の少ない老年のご夫婦だったけれど、優しく迎えてくれた。
 
 その時に現れた御先祖さまは、戦国時代の武将だった。お神酒を一気に飲み干して豪快な感じで現れたけれど、子孫である私に何度も何度も、謝り始めた。 「おまえには本当に申し訳ないことをしている。どうか許してくれ・・・。」と。
 それから、私が代わりに御先祖さまたちの供養をすることになった。霊媒師の方から、数珠と般若心経の経本を頂き、毎日自分でも唱えるようになった。そして、週に一度通い、一緒に供養をしてもらった。その場所は、高速バスから乗り換えても数時間掛かるような片田舎だったので、一日がかりだった。父にはもちろん、誰に話すこともなく、唯一の休みの日をそうして過ごしていた。何がそうさせたのか、どこかでわかっていたのでしょう。私がやるしかないと・・・。

 どれくらい続けただろうか、意味はわからずとも毎晩唱えていたので、般若心経もほとんど頭に入っていた。半年近く過ぎた頃か、ある時に「もう良い」ということを感じた。かといって、母の状況が良くなったというわけではなかった。でも、これはここまでで良いと感じたのです。
 その後、宇宙のエネルギーを降ろしている人に出会い、この世に無限の宇宙エネルギーがあることを知った。何しろ20年ぐらい前のことなので、ほんのごく一部でしか受け入れられていないことだったけれど、私は素直に信じることが出来ていたのです。

 そうして、福岡に来て5年ぐらい経った頃、突然流れが変わる時が来た。これは今までにも何度か書いてきたことですが、同僚から薦められて、何気なく出した公団住宅の申し込みが一回で受かり、すぐ翌月に移ることになったのです。
 中学の頃から、早く家を出て一人暮らしをしたいと願っていた。私はそうするべき、そうしないと私が私らしく居られない・・・。そう心に感じていた。でも実際には、それが出来ない状況にあった。何かの呪縛に掛かっているかのように、自由にはなれなかった。
 高校時代に悩んで見てもらった手相のおじさんから、「あなたの人生は自分のためではなく、人のため、この世に尽くすためのもの」だと言われたことも頭に残っていた。ショックだったけれど、どこかでわかっていたところもあった。そこで、幼い考えの私は、自分の幸せなど願ってはいけないのだと思うようになった。自分の未来に夢や希望など、持てなくなっていた。 だから、結婚のことなど考えたこともなかった。私は誰に頼ることなく、一人で生きて行かないといけないのだと・・・。

 それが、その時から一転することになった。同じ市内だけれど、天神のすぐ近くで便利な上に、部屋も最上階の角部屋。建物は古くても、きれいに管理してくれていたし、家賃も安くて、当時の私にとっては理想的だった。ここで、私は一人で自由に暮らせる。それが何よりうれしかった。・・・その引越しをしたのが、5月のハイライトであるゴールデンウィーク。(!) ・・・当時は意識していなかったのですが、必然的だったのですね。(^^)

 ・・・日本に帰ってから、この場所は住所の大手門が示す通りに、福岡城跡地(九州最大のお城だった)の真向かいで、エネルギー的にも福岡の中心の一つとして、大切な場所だったことが発覚。 お濠の中には一面の蓮、公園の池には菖蒲が咲き、桜の名所にもなっていた。そうして後になってから、ずっと見守って頂いていたことを知ったのでした。(^^)

 何に遠慮することもなく、自分の好きなものを飾り、自分の好きなものを料理して食べたり、料理教室に通ってみたり、スポーツクラブにも入ったり・・・これまでやりたいと思っていたことも、少しずつ始めた。それまで、少しタイプの違う同僚たちに無理して付き合っていたのを止めて、趣味で知り合った人たちと過ごすようになった。 
 その中で、日本に来たばかりのアメリカ人とも友達になった。そこから、いろいろな国の人(アメリカから、カナダ・イギリス・ウガンダ・スペイン・オランダ・ニュージーランド・マレーシア・フィリピン・ネパール・ブルガリア・・・などなど)と交友するようになり、世界の各地にたくさんの友達も出来た。毎日がイキイキと楽しかった。その数ヶ月前からは信じられないくらいに。

 引越しをして3ヵ月後に、ようやく仕事を辞めることも出来た。その仕事は今でこそ役に立っているけれど、当時の私にとっては苦行をさせてもらっているような環境でした。(ははは) でも有難いことに、雇用保険をしっかり貰うことが出来たので、たまにアルバイトをするだけで生活が出来たのでした。(^^)

 そして、柾至のパパと出会い、1ヵ月後にはプロポーズされていた。それが、引越しをして半年後のこと。でも結婚については、まだ考えられなかった。今の生活に満たされていたし、何より家庭を持つことに自信がなかったから。
 その3ヵ月後に彼と二人で、初めての海外旅行へ。高校時代に行きたいと思っていた西海岸を、3週間かけてドライブしながら周ったのでした。
 それでも、まだ結婚については受け入れられなかったけれど、彼の粘り強さと作戦(!?)に押し切られて、自分の意思とは別のところで動かされているような、抵抗できない状況に。(笑) ・・・それも宇宙のプランだったようで。

 引越しをして一年後のゴールデンウィークに、入籍後の手続きも兼ねて東京へ。帰ってきてすぐに、妊娠していることがわかった。(!) 結婚を受け入れるのがやっとで、子供を持つことまで考えられなかった私は悩んだけれど、観てもらったタロットの太陽のカードから、「この子は、あなたの太陽になる。」と伝えられたことで、母親になる覚悟をした。
 ・・・「オーラの泉」で、26歳前後に子供を授かるのが理想(・・・この時期に生まれた子供は、両親の最も優秀な遺伝子を授かるという意味のようです。)というのを聞いて、ピッタリだったのでうれしかったのでした♪ 宇宙のプランは、何から何まで完璧なり。(^^)

 お互いに貯金もなかったので、結婚式は近くの教会で、内輪だけでするつもりでいた。それが、たまたま目にしたパンフレットに、心惹かれるものがあり、ドライブも兼ねて行ってみて、その場で即決。それが、糸島にある「エメラルドリゾートパーク」。 周りを海と山に囲まれた、丘の上に建っていたのです。
 市内から離れていることもあり、血縁関係は私の父ぐらいにして、親しい友人だけ呼ぼうと思っていたら、100人ほど来てくれることになった。そして、イギリスから彼の素敵なお兄さんまで駆けつけてくれた♪ ・・・その日をどうやって決めたのか憶えていないけれど、7月7日になっていた。(!)
 翌月には私も東京へ。流れが変わってから瞬く間の一年。・・・当時の私にとっては、自分にも人並みの家庭を持った幸せが得られることが意外だったけれど、扉が開かれるとここまで動くのかと、今でもつくづく実感しています。

 母がそういう状況なので、出産の時も里帰りをすることなく、自分たちの新しい生活が中心になった。数年後にはカナダへと移住することを決意。 そこで次の転機を迎えて、様々な出来事が起こり、カナダでREIKIに出会うことに。(REIKIとの出会い) 

 一度目のサードの時に、久し振りに家に戻った。母は、家の中から出ない状態になっていた。でもREIKIを受けたことで、この問題も何とか出来ると思えた。その自信があった。
 その時に、名の知れたチャネラーに出会った。両親のことを尋ねたとき、「それは彼らの問題だから、あなたには何もすることがない。あなたは、これから自分のことをしなさい。」と言われた。全くの予想外のことを言われて驚いた。私はしばらく離れていたことに責任を感じて、また私が何かしないといけない、するべきだと思っていたからです。福岡に帰ることになったのは、その意味もあったはずだと・・・。
 宇宙の無限の力と繋がったのを実感していたのに、私には何もすることがない、何も変えることが出来ないということ? ・・・その時に、とても失望したのを憶えている。

 それも今なら、良く理解出来る。まずは自分のことをしないといけなかった。この時の私は、ようやく本来の自分と繋がったばかり。ようやく今生で自分の進むべき道が見えてきて、歩み始めることを決意したばかりだったから。
 実際に、何もない状態からスタートした私は、自分たちのことで精一杯だった。有難いことに、母も身体のほうは問題がなく、自分のことは自分で出来ていた。父も仕事を続けていたので、二人の生活は何とか大丈夫だった。
 ただ、忍耐強くて、私たち家族にも愚痴ることがなかった父だけに、母と二人だけの生活になった数年間の間に、心が硬く閉ざされていた。まず、その心を癒していくことが必要なのだと感じた。

 父に負担を掛けない範囲で、出来ることをやって行こうと思い、一人で遊びに行くことがない父を誘って、柾至と三人で出掛けるようにした。それから、少しずつ変わってきた。柾至のことも、すごく可愛がってくれたし、柾至もおじいちゃんを慕っていた。
 2年前に肺炎で入院をした頃から、新しい流れが来ているのを感じた。退院後、私のところでしばらく一緒に過ごしたことから、父の生活に対する意識が変わった。仕事も止めることになったので、自分で簡単な料理も始め、ハーモニーウォーターも自分で取りに来るようになった。そして、その翌年には、20年以上住んでいた場所を出ないといけなくなった。 それも父の意思とは別に必然的だった。有難いことに、また公団に当選して、もっと安いところに決まった。

 環境が変わることの意味は大きい。特に、父ぐらいの年齢にとっては。ついに、念願の時が来たことがわかり、うれしかった。私自身のことと照らし合わせて、これから二人もさらに変わるのだと感じたから。
 その場所も、環境は申し分なかった。何もかもリフレッシュさせてくれたようだった。

 今回のことは、その一年余り経った頃の出来事だったのです。それは、全くの予想外の方法でやってきたけれど、それが最善であったことが、今になってわかることになりました。