[聖なる旅] 


聖なる旅


ダライラマ法話会 編


            
                  

2005.4.12
                          

 4月12日
 今日は、ダライラマ法王の法話会へ。去年の秋頃から、法王さまが熊本に来るという話を聞いていた。周りの人たちは、早めにチケットを購入していた。年が明けて思い出し、私も行くことを考え始めたところで、タイミング良くバスツアーの案内が届いた。(やっぱり行けってことなのね。) 場所が場所なので、現地まで連れて行ってくれるのなら大助かり。それもチケット&昼食付き。自分で行くよりも、よっぽどお得。(8000円ぐらいだった。) ありがとうございま〜す♪

 バスがずらりと並んでいる。私たちのナンバープレートは、55−66の数並びで覚えやすい。(行け行けGOGOのナンバー。^^) 「今日は一日、かなり混雑すると思うので覚悟しておいてください。(笑)」と添乗員さん。団体バスだけで、1500人。計4500人の人が集まるそうだ。(わお〜!) お寺で行われるので、てっきり数百人程度と思っていた私。(ほほほ) 

 途中で、日輪寺に寄ることに。三万五千株のツツジで有名らしい。まだ開花していないツツジの代わりに、200本の桜が迎えてくれた。一面、花の絨毯になっている。ピンク色に染まってきれ〜い。とってもロマンティック♪ 今年の春は、最後の最後まで桜さんを楽しむことが出来た。(しあわせ〜)

 ゆっくり散策していると、何やら大きなお坊さんの頭が見えてきた。おお〜!? 全高30m 幅10mの立派な大佛(びんずるさま)だった。中に入ってみると、全身金色の横たわったびんずるさまも。(金ピカで豪華) 釈迦如来のお弟子様で、衆生の無病息災、病気平癒等を願う半臥撫で佛様(びんずる尊者)。左手には、玉を乗せている。私は父のことを浮かべながら、よしよし撫で撫で。びんずるさまも、いつもご苦労様ですね。 お座りになっている像にも御挨拶しようとすると・・・おっと! 目がカッと開いていて、思わず後ずさりしたくなるほどの迫力。(思いっきり目が合っていた。) 目の前に、いらっしゃるとしか思えない。いえ、確かにいました。(^^) いつもありがとうございます。お釈迦様にも、よろしくお伝え下さいませ。


 両脇には、金色の鳳凰も。(眩しいくらいの光を放ってます。) 中にいただけで、頭がクラクラしそうだった。ここで声を掛けられ、誰かしらと思えば、瞑想会で何度か会った人。別の号車だったらしい。他にも、同じく瞑想会で会った若い女の子もいた。やっぱり、みんな来てるのよね〜。
 外に出て、降りてから見上げると、どど〜ん!(大きい・・・) そのすぐ背後には、竜王山古墳もあるのだそう。他にも、このお寺には石体観音が三十三基。思いがけず良い時間を過ごせて、すでに満たされている私なのでした。(本番は、まだこれからなのよ〜。^^)
 

 そして、法話会の会場である蓮華院誕生寺へ。渋滞に合うこともなく、スムーズに到着。次々に団体バスが入っている。さすが法王さまをお呼びするぐらいあって、立派なお寺だった。一人ひとりボディチェックもあり。早く着いたので時間に余裕もあり、境内を散策。テント村には、チベットグッズや物産、お食事などの露店がズラリ。そこで、ふみさんとバッタリ。山田さん夫婦や瀬田先生とJRで来ていた。こんな人混みで会えるなんてね。(^^) 昼食は、境内のお店で和風料理。お土産に、蓮の実の甘露煮を買った。(栗みたいでおいしい) また、珍しい天眼石なるものをゲットすることに。(これが、後で思った以上の意味を為すことに。^^)
 
 法話会場は、本堂である五重塔の前に設置され、後ろにはスクリーンも用意されていた。(コンサートみたい。^^) ずらりと並べられた椅子。団体ツアーだから、座席には全く期待していなかったが、何と一番前のブロックのほぼ真ん中。(前から5列目ぐらい) わ〜ラッキー! ここなら、お顔も肉眼で見れるかも〜。最初に、チベット音楽の歌と演奏があった。初めての生演奏を楽しんだ。 そして、いよいよ法王さまの登場。予定より少し遅れて到着。歓声がわき上がり、鳥たちも一斉に鳴き始めた・・・。

 本堂に入り、回廊を歩かれる姿が見えた。その姿が目に入った瞬間、思わず涙が・・・。あれれ〜、まだ早いんじゃないの〜!? 何だろう・・・。自分でも不思議だった。私が参加したのは、ほんの軽い気持ちだった。特別に、法王さまへの思い入れがあったわけではなかった。このような機会は最初で最後だろうから、やはり一度はお目にかかっておこう・・・その程度だった。それが、微笑みながら手を振って現れる法王さまの姿を見ただけで、無意識の内に合掌していた。身体の中から何かが溶けていき、自然と涙が溢れてきた。これは一体・・・。

 法話は、約二時間ほどだった。朝から曇っていて、雨になる怖れがあり、山の上なので寒くなるだろうと思われていた。周りを見ると、みなさん用意周到の完全防備。私は、前の日に久住高原に行っていたばかりで、何も考えてなくて、会場が外だとも知らず、かなりの薄着でジャケットもなし。これは大変だ〜と思っていたら、空はどんどん晴れていき、太陽サンサン。(陽射しで暑いくらい。)厚着していた人たちは、どんどん脱ぎ始めていた。
 上空にはヘリコプターが飛び、ボディガードもピッタリ。鐘楼堂には、モンゴル仏教の最高峰の迎下を始めとした、世界のVIPもズラリ。世界一の大梵鐘と言われている「飛龍の鐘」が撞かれ、法王さまのお話が始まった。
 チベット語で話されて、同時通訳。最初に般若心経を全員で唱え、釈尊に対する礼拝から。そのお話の一部を紹介してみると・・・

  「・・・この世には、様々な宗教があり、何らかの形で人々の役に立っている。同じように、全て愛と思いやりを持って接しなければならないこと、愛・慈悲・忍耐・戒律について説かれている。一つ一つの宗教が、お互いに尊敬と相互理解を持つことが大切である。

 私たちというのは、常に心の動機をもって行いをしている。誰も苦しみを望んでいないのに、次々に苦しみがくる。幸せになりたいのに、自らが苦しみの原因を作り出している。それは無知・無明におかされているから。無くすべき苦の因を作っている。幸せの因を作っていない。正しく知る力が欠けている。間違った物の考え方をしている。無明とは、対象物の在りようを間違って捉えてしまうこと。物の実際のあり方を正しく理解していない。間違った見解を無くすことを先にする。それから苦しみの因をなくし、正していく。間違いを間違いであると認識し、正しい見解を自分の心の中に育むこと。

 自我があると信じて、その実態を掴んでしまっている。囚われている。執着する心や怒りがわき上がっている。魅力的に映っているものに、執着してしまう。逆の場合は、怒りや嫌悪感として。対象物の顕れによって変わってくる。このような違いは、存在しないはず。そのものに備わっているのではない。様々な条件による違いや、自我を捉える心があるために起こっている。捉え方によって、同じものでも違って見えてくる。自分自分という、自我の意識が強い人には、高慢な心が強く表れる。
 無知を無くしてやると、全ての煩悩を無くすことが出来る。一度には出来ない。段階を追っていく。 あるのかどうか考え、良く調べることで、本当には存在しないと理解すること。自我に囚われている心を無くしていく。自我が存在しないのが、無我である。
 仏教には4つの学派がある。釈尊は、それぞれ違った教えを説いている。それは、弟子によって違った教えがあるから。本来は、何も違いはない。どのように捉えていくか・・・。分析して、矛盾が存在しているときは、取り入れるべきではない。自分で分析して、調べた上で、見極めて信じていくこと。

 全てのものは、他のものに依存して生まれてきている。名前を与えられたことで、仮に存在している。そのもの自体の力で存在しているものはない。依存していないものはない。全て他のものの力に依存して存在している。永久不変の存在でもない。どちらでも良い中道、真ん中の道である。
 般若心経では、全ての形あるものは空である。空であるがゆえに、形あるものは存在すると説いている。刻々と変化していく。自我も変化していく。ものは全て仮の姿。段階を経て、聖者の世界へ。直接の体験を通して、空を理解していく。そうして、煩悩や障りをかわしていく。
 全てのものは、互いに依存しながら存在していることを理解しておく。環境や経済に関しても同じ。今までとは違った見方をして変えて行く。互いに相互理解を持ちながら生じて、存在していく。それによって怒りの気持ちは無くなってくる。自分が思っていたようには、実際には存在しないことがわかる。それが怒りを静めることに役に立つ。
 人間としての知性という力をフルに利用して、考えていく。悪い感情をなくして、良い感情を育てていく。良い影響が表れるように実践していく。良き心の変容を・・・・。」


 法王さまは、話し方を変えながら、一貫して同じテーマを話していたようです。出来るだけ集中していたものの、その場で理解することは困難だった。(内容が内容なので、同時通訳はかなり難しいみたいです。) そのせいか、私の周りでも、気持ち良さそうに夢の世界へと入る人がほとんどだったりして・・・。(^^) そんな私も、眠気は来なかったものの、途中で何度も手を止め、法王さまのお顔をボ〜ッと見つめていた。こうして書き留めたことを、ゆっくり読み直して、ようやく意味がわかってくる。 言葉だけで捉えようとすると、心で理解することが出来ない。法王さまの言葉にもあったように、じっくり時間をかけて理解することも必要なのですね。

 お話の中で、私が感じたのは・・・その人の意識次第によって、全てが変わる。同じものが目の前にあっても、その捉え方、その人の意識によって、現実に起こってくるものが異なるということ。そして、それはどんどん変化している。その人が気付き、成長・進化することによって、変えて行くことが出来る。それも体験することで、気付くようになっている。目の前の見せかけの現象に囚われず、(高次の部分の)心の目で見れるように。これまでの古い見方や価値観を変えて行くことが必要。どちらかに偏ることのない、中庸の道を歩む・・・ということ。これらのメッセージは、宇宙からも繰り返し伝えられていることでした。

 何より凄いと思ったのは、その存在感。あれだけの力を持ちながら、威圧する雰囲気が全くない。周りの人よりもずっと小柄で、ニコニコしながら手を振る姿が可愛くて、親しみさえ感じさせる。(ちょっぴりお茶目なところも。^^) 外見は、普通の人と何ら変わらないように見えるのに。その場に現れるだけで、空気が変わった。そこに存在しているだけで・・・。これが本物の聖者であり、お釈迦様の慈悲の心を顕現している存在だからなのでしょうか。 その御心に包まれたために、感動し泣いてしまったのでしょうね。これは実際にお会いしないと、体験しないとわからないことでした。この機会を与えて下さったことに感謝です。
 
 一緒に参加していた人たちも、お話の内容は難しかったけど、お会い出来ただけで良かったと、満足していたようです。ラマちゃんパワー(=ブッダちゃんパワー) 恐るべし! (パチパチ)
 帰りは、まだ桜が残っていた公園で休憩。最後までスムーズで予定通り。そうそう一つだけ、お寺では混雑するからということで、バスの中で注文していた天眼石が、私を含めた数人だけが在庫切れで手に入らず、後で送ってくれることになった。(これにも意味があったことが発覚。続きは、Diaryでね。^^)

 主催側から、参加者全員にプレゼントまであった。蓮華院貫主さんの著書と、立派な桐の箱に入った、真言律宗 総本山 西大寺の「光明真言百萬塔」。八角五輪の塔を象ったもので、魂が込められているという。金色に輝いて、ずっしりと重い! この中には、ダライラマ法王直筆の真言が納められる予定だったが、この日までに間に合わず、後で引き換えてくれることに。こんなに立派なお土産まで頂くなんて・・・。(祭壇が、よりパワフルになってます。) 
 お釈迦様さま・・・本当にありがとうございました。ここで受け取ったものは、エネルギーに変えて、多くの人と分かち合いたいと思います☆